1+1=2ではない。死とは何か?
ご機嫌よう。池田骨🌙助です。
今日はおれの好きなリュックベッソン監督の映画LEON(レオン)、LUCY(ルーシー)を観て、感じた哲学的な死について、語っていこうと思う。
苦手な人は戻って下さいとは言わない。
苦手な人ほど、死について向き合うことが必要である。
人は恐怖から逃げると、それは増幅する。
トラウマもそうだ。
おれも、7年前音楽から逃げた。
逃げている間、音楽を聴くのも嫌になっていた。その時の状況が鮮明に思い出されるからだ。
だが、逃げてばかりいると、自分はそこから逃れられないのだ。
その鎖はしっかりと自分の心の足枷となって、離れない。
おれは、普通の仕事をしながら、少しずつ少しずつ音楽への向き合い方を考えだしていた。
結局、誰かに気に入られようと必死な音楽は、誰かの評価で成り立つわけで、自分は無いのである。
自分のやりたい音楽をやる。
共感してくれる人は少ないかもしれないが、
共感してくれる人は、自分軸に寄り添って来てくれる人なんだから、そこには、評価も無いのだ。
ただ、ガムシャラに渾身の力を込めて歌うだけなのだ。
仕事として歌にすると、難しい部分も出てくる。ジェームスブラウンくらい売れたら好きなことしてもいいのだろう。
おれは、今までの音楽に対して、メンチを切ったのだ。
嫌われてもいいと。
おれはおれのやりたい事をするだけだと。
憧れの人と比べて、勝てないって思う時もある。だが、『氷のヒマワリと青虫』の歌詞にもあるように、
アイツはバラのようでも、アンタは僕にとってヒマワリなのだ。
だから、そいつとは全く関係ないんだ。
メンチを切ろう。
メンチを切ったら、もう、立ち向かうしかないので、恐怖は薄れるというより、どっかに行ってしまっている感じになる。
おーい?留守かー?
メンチを切ったせいで、
恐怖くんが居なくなってしまったので、
小腹満たしに、メンチカツのコッペパンを
買って食べながら、
今日の記事に行くとしよう。
今回の、前置き長いな。
(ネタバレがあるので、見てない人は、レオンとルーシーの映画を観てから、今回の記事をお読み下さい。)
1994年『レオン』
子供のままの大人の殺し屋と、
大人になってしまった少女。
2人の愛のストーリーである。
最初に言っておくが、
リュックベッソン監督は、
女、子供は殺さないのだ。
悪い奴だけを打つ。
ピストル社会は無くなった方がいいが、
正義は時と場合によって変わる。
銃社会に適した正義というのも存在するのだ。
バットマンのような、人を殺さない正義が一番理想だが、あの装備が用意できるのはまだまだ先であろう。
2人の愛は最強なのである。
年齢や、世間体という概念を超え、
最終的に死を超えてでも、彼女を守るという映画なのである。
自ら死を好んで選ぶのではない。
死を覚悟した愛なのである。
これぞ、本当の愛の形であり、
結婚という儀式に囚われない愛なのである。
おススメの映画である。
2014年『ルーシー』
レオンから20年経った作品。
彼の作品は、SFであっても、
人の死の概念を如実に表現する。
今回でも、子供、女は殺さず、
悪人は勧善懲悪である。
例外として、殺す相手も、手術中の腫瘍転移でもう助からない人を打つのである。
安楽死を表現させたのかもしれない。
この作品では、
人間の脳は10%しか使っていないが、
100%使ったらどうなるのかを問いている。
1+1=2ではない。のシーンがある。
人間には、測れない尺度があり、
人間は、自分たちの尺度でものを考える生き物だ。と。
この映画は、
人と言うのは、
どれだけお金を得て、知能を得て、
超人的な力を得て、
地球や、宇宙をも変えられる力を得て、
全てを手に入れたとしても、
それは、
ある意味『神』であり、
その一方で『無』なのである。
そこにあって、そこにないのである。
この世の中で、有り余る程の大きな力や、質量は、もはや、我々の目では識別不能なのである。見えないのである。
全てになるとは、空気でもなく、
真空になるということでもなく、
真空という空間でもなく、
『無』さえも手に入れるという事である。
全知全能の神とは、無をも知っているという事になるのだ。
この世、あの世の全てを手に入れても、
幸せであり、幸せでないのである。
そこにあって、そこにないのである。
だから、人から奪って得ても、
それは、そこに、あるようでないのである。
その悪者自身も、そこにあるようでないのである。
人を傷つけて、無を手にしているのと同じことなのだ。
これ程、無価値で無意味なものはない。
争いは、無価値で無意味でしかないのだ。
無理して、なにかを手にしようとして、
人生は苦しく、辛いと思う人は、
考えてみて欲しい。
あなたの手に入れようとしてることは、
そこにあるようで、ないのだ。
神的存在になろうとして、
無に近づいているのである。
だが、これだけは言える。
自分という存在は、
そこになくても、そこにあるのだ。
ルーシーは最後にこう言うのだ。
私は至る所にいる。と。
金やモノや地位や名誉に囚われず、
自分という存在を育ててあげましょう。
スピリチュアルや、宗教な話は無しだ。
人の死は悲しい。
だが、
それは当然起こり得ることであり、
あるものが無くなる。
そして、それは生物的、無機物的、有機物的に巡回し、無いものがあるものに変わる。
おれの兄貴も37歳で自殺をして、この世を去ったが、地球や、宇宙のどこかで、なんらかの形に変わって存在しているのだ。
これは、おれらにも、もちろん当てはまるのだ。
だから、悲しいことであって、悲しいことでは無いのだ。
たとえ、死んだとしても、
自分自身はあるようでないようなもの。
だが、自分の生きたココロは、
ないようであるようなもの。なのだ。
矛盾は存在するのだ。
1+1=2ではないのだから。
ある哲学者が言った。
1=1。A=A。と。
そう。おれはおれ。あなたはあなた。
誰にも変えられない哲学が、そこにはあるのだ。
みんな。生きよう。
ここからだ。
最後まで、生き抜くぞ。
好きな映画
AKIRA
バットマンダークナイト
LEON
LUCY
マジック、羊たちの沈黙(アンソニーポプキンスの怪演。気持ち悪いけど、彼の独創的な哲学を感じる演技。ものすごいです。)
ジブリ(風の谷のナウシカ、もののけ姫)
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